「はやぶさ」と「隼」
今日、小惑星探査機「はやぶさ」が使命を果たし終え、星となって燃え尽きる。
小惑星「イトカワ」の砂は採取できているか微妙だが、多くの人々の思いと技術の集積、経験を後世にはっきりと残して逝く。
それはちょうど、65年前の「隼」のように。
「はやぶさ」、この名は地上の獲物を急降下急上昇でつかみ取る猛禽“隼”のイメージからきている。
小惑星「イトカワ」から砂を“隼”のようにつかみ取ろうとというわけだ。
しかし、「はやぶさ」と「イトカワ」が揃った時、やはり私が連想するのは、帝国陸軍一式戦闘機「隼」であり、故糸川英夫氏である。
大東亜戦争開戦当初、加藤建夫少将率いる加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)に代表される戦闘機「隼」の華々しい戦果は、その卓越した設計思想が産み出した賜物でもあった。
その設計開発に携わったのが、当時中島飛行機に勤務していた糸川英夫氏である。
けれどその栄光も長くは続かなかった。
日本の戦闘機を分析し、ぞくぞくと生産されたアメリカの新型機の前に、「隼」は苦戦を強いられるようになっていく。
敵方の情報量が少ないなかで開発された日本の新型機は、技術的な面でも後手後手に回り真価を発揮できないまま、物資不足で生産すらままならなくなっていく。
「隼」に残された最後の使命、それが特攻だった。
65年前、「隼」は多くの未来ある若者を乗せて空をかけ、散って行った。
彼らの護国、愛する家族を守りたいという思いを後世に伝えながら。
自らが産み出した戦闘機が若者の命を奪う現実に糸川氏も苦しんだ。
その苦しみ、悲しみを次へ繋ぐべく、敗戦で航空機開発が禁止された中で、糸川氏はその技術と熱意を宇宙開発へ注いでいく。
わずか23センチのペンシルロケットから始まった日本の宇宙開発は、糸川氏の常人離れしたバイタリティで進んでいった。
資金難、実験場探し、爆発までありとあらゆる困難を排し、1970年2月11日、ソ連、アメリカ、フランスに次いで世界4番目に純国産で人工衛星を打ち上げた。
敗戦から25年、糸川氏と宇宙開発の一つの到達点であった。
その後もさらなる目標に向かって精力的に働く糸川氏に対し、朝日新聞がネガティブキャンペーンを張る。
社説から天声人語までをつかった執拗なものだった。
痛くもない腹をさぐられた糸川氏は嫌気がさして、宇宙開発を後任に託し、職を離れることとなってしまう。
それでも、糸川氏が日本の宇宙開発史に多大な功績を残したことは揺るぎないものだった。
糸川氏の名は、小惑星探査計画に伴い、宇宙科学研究所(JAXAの前身)の依頼で小惑星に冠されることとなった。
小惑星「イトカワ」探査計画、そこに向かう探査機の名が「はやぶさ」。
糸川と隼はイトカワとはやぶさになってもう一度、日本の技術と魂を世界に示すことになった。
「はやぶさ」苦難の探査行、何度も「もうだめか」というところが這い上がり、小惑星「イトカワ」にタッチダウンした。
まるで意思があるもののように。
「イトカワ」に会い、戻ってきた「はやぶさ」には、「隼」とそれを駆って国難に当たった操縦士の魂が宿っているのかもしれぬ、そんな想いも抱かせるものだった。
今日、「はやぶさ」の流れ星に涙する人は、65年前の「隼」とあの夏も、思い起こしてほしい。
あの時の想いは今日まで続いている。
あの時があったからこそ、今の平和があるのだと。
参考文献
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